『西欧精神医学背景史』という本がある。著者は中井久夫さん。〈精神医学史を書こうとする試みは、いつもヨーロッパの歴史そのものに入り込み、そこに湧く疑問に取り組むことになる。それ抜きにただの「精神医学史」を書くことを私はいさぎよしとしなかった〉とあとがきに書いてあるように、研修医だった頃にこの本を読んで私は目がまわる思いをした。自分が身を置き、働いている精神医学の業界の根本にあるヨーロッパが頭のなかにどっと流れ込んで渦を巻き、日々の仕事が危うくなった。いちいちこんなこと考えて働けない。目の前のことで精一杯。当然、一度読んだだけで本棚にしまい込み、その後数年(数十年?)は読み返さなかった。
しかし、精神医学の源流に魔女狩りがあるという綿密な論証と、中井さんがそれを西欧の精神医学者に指摘するときっぱりと否定されたというあとがきがこころに残った。自分が実践している医療の源流に魔女狩りがあるなんて指摘されたらさぞ嫌だろう。魔女狩りは女性への迫害であり、相当数の女性が魔女のレッテルをはられて処刑された。誰がそんなことをしたのかが問題なのだが、とにかく、船が沈んだとか、牛が乳を出さないとか、作物が実らないという不都合を魔女のせいにして、女性たちに「責任」を取らせたのだ。
今回『マクベス』の改作に取り組むにあたり、シェイクスピアが『マクベス』を書いた経緯を調べると、ジェームス一世がパトロンとして登場した。当時のイギリス国王だったが、その権威は安定せず、息子のチャールズ一世は清教徒革命で処刑されている。魔女狩りにのめり込んだ国王としても知られ、シェイクスピアはこのジェームス一世に観せるために芝居を作らなくてはならず、『マクベス』を書き、魔女の言葉に操られたマクベスを破滅させ、ジェームス一世の祖先にあたるバンクォーをマクベスに殺される無念の人に仕立て上げた。ジェームス一世に媚び、喜ばせるためだ。なんて狡猾なシェイクスピア(誉め言葉)と感心したが、感心してばかりはいられない。魔女を狩って女性を迫害したジェームス一世を喜ばせるために書いた戯曲をこの今にそのまま上演できるわけがない。女性への迫害に加担してしまう。
ところが、『マクベス』を読めば読むほど、魔女は当然の前提として現れ、物語のすみずみにまで力をおよぼしている。シェイクスピアのままではやれない。何とかしないと―。
本棚から『西欧精神医学背景史』を取り出すところから改作が始まった。精神科医になってすぐにぶつかり、ほったらかしにしていた宿題にもう一度本腰をいれた。なんと約30年ぶりに。
一気呵成に書き上げた脚本は稽古場で叩いて鍛えられ、まもなく舞台に上がる。ジェームス一世にも皆さんにも観ていただきたい。釜と剣から読み解く、新しい『マクベス』を。