「て~ほへ、てほへ」―花祭の掛け声が響く。『マクベス 釜と剣』の脚本にふれ、私には、奥三河(愛知県北設楽郡)の花祭の舞処(まいど)がありありと浮かんできた。花祭とは、「釜」を舞処の中心に据えて夜通し演じ舞われる「湯立て神事」を中心とした神楽である。折口信夫(小説『死者の書』の著者)や早川孝太郎ら民俗学者により、今日ではよく知られている。ここでは、湯立ての「釜」をめぐるこの演舞が呼び覚まされた縁から、公演『マクベス 釜と剣』の言祝ぎができればと思う。
この神事では、注連で結界した舞処に釜を設けて、そのうえに天蓋のように神の依り代となる湯蓋をつるす。勧請した神々に湯を献じ、人々はその湯を浴びて生まれ清まり、命を更新する。この祭は、冬の深夜にも大人や幼い子どもたちの舞が軽やかに延々と続く。どこからその力が湧き出すのか。さらに、地を踏みしめる鬼の荒ぶる舞、人との掛け合い、鉞で釜を割るしぐさなど、神霊は具体的姿や所作となっても舞処を満たす。
シェイクスピアの「マクベス」も、劇中人物たちは異界のものとの縁により芽吹いた種子を、その生涯として一気に舞いあげる。われわれは悲劇による浄化と変容のただなかに放り込まれる。姿を現しては消える幻影的存在はどれも、釜の御使いや、釜底からいずるもの、釜へと集うもののようで、事象はすべて釜をめぐる布置にさえみえる。
原作冒頭には、三人の魔女による謎かけのような不穏なシーンがある。よく知られた「きれいは汚い…」など、暗示にかけるかのような一見相反する言葉によって日常が揺らぎ裂け目ができる。相矛盾するものの両義性によって、ものごとの価値や意味が不明瞭になる境界領域という舞台に投げ込まれ、しまいにはその同義性を思い知らされる。
それをもたらす魔女は実体をもたず、ムードや気分、幻想、思いこみを左右するアニマ的存在であり、ものごとの意味や本質をむやみやたらにつなぎとめてしまう融即的機能に長けている。そうした場にある剣は、合理的に判断分節する機能よりも、神霊と関係を結び約束の未来を得るための供儀を切断解体する機能が優位・必然的となる。マクベスの舞台の殺しにもそうした一面がある。一方、剣はまた神霊そのものであり霊性を高める側面がある。花祭のような神楽が破壊性と同時に創造をもたらすのは、これらの側面が同時に尊重され儀式化されているからで、異界のものとの慎重な折衝の指針になる。
『マクベス』では、後半に魔女の頭領「ヘカテ」が登場するが、その名や姿が登場するかしないかにかかわらず、登場者、アイテム、場所の背後にはみな「女神ヘカテー」の気配を感じる。そこで起きる事象は、ヘカテー的な宿命や関係の力学を多分に含む。例えば、魔女三人。三人一対は普遍的モチーフで、古来、女神も三相一体(ヘカテーもその一相)をなしたが、ヘカテーは自身だけでも三身一対や三獣頭(馬、犬、猪)一身で三つ組の姿が強調された。その三相性(破滅・甦り・保持/天・地・冥界など)をもって破壊と再生、人生の浮き沈みや生死にかかわる運命の女神であり太母である。彼女は特に冥界と月の女神とされ、亡霊の出現を支配し、妄想や夢遊病をもたらす、手には鍵、鞭、短刀、松明をもち、魔術や妖術をつかさどる。また、予言や出産や結婚の女神とされ、家の戸口や門、お産の床に立つ。冥界の「門」にいるケルベロスもまたヘカテーの化身とされた。このようにみると、『マクベス』の魔女と釜、王殺しと短刀、バンクォーの亡霊、マクベス夫人の夢遊病、洞窟や城門などに感じるただならぬ兆候は彼女へとつながるものである。
ヘカテーの名は、「遠くから働きかけるもの」を意味する。見えない糸で連鎖するかのように事象を布置するのが特徴である。ヘカテー像は道路の三叉路(四つ辻)で祀られ、そこにはさまざまな生け贄が供えられたという。この場所は道が出会う合一点であり、分岐する裂け目でもある。その場所からすべてを見通し、人生の決断選択にかかわる。演劇として切り取られた『マクベス』の場面は、まさにそのような場になっている。ヘカテーの坐す演劇マクベスという供儀や神楽によって、われわれの心には何が再生成されてくるだろうか。心理学的にみると太母のようなものは、人間が獲得しつつある新たな意識性がしっかり定着するまでの不安定な状態では、それを圧倒して貪り食う怪物的な力となって現れ、無意識から湧き出す情動や衝動の影響を受けやすく、予定されていたかのような災いの布置などが起きやすい。中世キリスト教社会では、その破壊的側面が強調されたが、その見えない共時的な力がもつ創造性ははかりしれない。だが、その脅威、距離のなさ(遠さと近さ)、全能性、影の側面からは、心の核心に触れること、集団の統治、未知なるものの探求において、自分の存在もろとも変容する覚悟がいることを思い知らされる。太母の坐す舞台はその全体が胎内となり釜となる。中心に据えらえるものは全体に作用しているという観点からは、舞処自体(結界の内)が釜である。舞台が大釜のうちであるような感覚が湧くとするならば、太母の布置の中にあって演者・観客ともども変容の坩堝に投げ込まれている。
女神ヘカテーは、エジプトの毎朝太陽を産む天界の産婆神ヘキトに由来するともいわれる。大陸からキリスト教社会の影として魔女裁判の時代が訪れ、『マクベス』の冥府的なものは名こそギリシャ神話のヘカテーが担っているが、スコットランドの森や魔女には「ケルトの大釜」やそれを担う神々が宿っている。聖杯伝説の原型ともいわれるこの大釜は、生命の源泉であり魂の器である。それは食べ物を無限に生み出す豊饒性、死者の蘇り、不死や若返り、変身、知恵、霊力、呪力などをもたらす。そこには器を太母神の子宮とする輪廻転生や万物流転の感覚が宿っている。それは自分の身が解体されて大釜に投げ込まれるシャーマニズムでのイニシエート体験とも共通する。終盤で森が丘に迫るとき、マクベスは釜の知恵、抗いがたい揺り戻しや命の輪廻をみつめる心境に達していたかもしれない。
この「釜と剣」という舞台に、われわれが投げ込まれイニシエートされたとき、その雫はどのような波紋を描きだすだろうか。
工藤昌孝(日本福祉大学大学院社会福祉学研究科心理臨床専攻 准教授)
専門は臨床心理学。精神医療や教育分野の心理職を経て、十数年間、大学院で臨床心理士(及び公認心理師)の養成を行う。著書(共著)に『経験と理論をつなぐ心理学』(八千代出版)、『臨床バウム』(誠信書房)、『表現療法』(ミネルヴァ書房)、訳書にC.G.ユング『哲学の木』(創元社)がある。趣味は伝説探訪や史跡散策等。奈良県出身。