アウトサイダーとしての道化(文・太田耕人)
「人が生まれ落ちたとき泣くのは、この阿呆(フール)ばかりの大舞台に引きだされたのが悲しいからだ」(4幕6場)とリアは言う。なるほどシェイクスピア劇には、軽薄な召使いから間抜けな田舎者まで、無数のおどけ役が出てくる。笑いの機能が多くの役柄に分与されていて、どの人物を「道化」(フール)と呼ぶか、厳密な線引きはむずかしい。
迷いなく「道化」と呼べるのは、職業的な宮廷道化として登場する人物である。喜劇『お気に召すまま』のタッチストーン、『十二夜』のフェステが典型だ。彼らは社会に組み込まれず、価値観や秩序の違いを越えて自由自在にふるまう。タッチストーンは、宮廷の洗練を尊びながらも森の野生を受けいれ、田舎娘と結ばれる。フェステは、敵対するオーシーノ公爵とオリヴィア伯爵との間を軽やかに往き来する。道化とは本来、中立的な立場を保ち、秩序の外から世界を照射するアウトサイダー的な存在である。
こうした一般的な定義に照らすと、『リア王』の道化はきわめて異例だ。喜劇ではなく悲劇に登場し、宮廷道化でありながら名前を与えられていない。常にコーディリアに近い立場からリアに辛辣な機知を浴びせる。決して中立ではない。
当時の宮廷や貴族に仕えた道化は、機知を武器に主君を揶揄し、その心労や重圧を相対化することを生業としていた。とさか帽にまだら服という異装で、自らが秩序の埒外にいるアウトサイダーであることを示し、不敬、愚劣、卑猥な言辞を許された。ただし、一線を越えれば罰せられることもままあった。劇中、道化の容赦ない言葉にリアが「気をつけろ、鞭だぞ!」と激昂するのは、当時の現実の反映にほかならない。
道化は地口やノンセンスでリアを批判する。観客は次第に、その苛烈な非難がリア自身の内面の声であるかのように感じ始める。潜在意識下でリアが薄々気づいている真実を、道化が仮借なく言語化しているのである。リアが「いったいわしは誰だ、だれか教えてくれ」と問いかけると、道化はすかさず「リアの影法師さ」と応じるが、私には道化こそがリアの「影」であるように思える。やがてリアが狂気の中で真実を悟り始めると、役割を終えた道化は舞台から姿を消す。
*
シェイクスピア時代、道化は専門の道化役者が演じていた。初期の作品で活躍したのは、身体能力が高く、祝祭的な笑いを得意としたウィリアム・ケンプ。脚本を無視して即興やダンスで客席を沸かせた、文字通りのアウトサイダーだった。
1599年、ケンプに代わり、ロバート・アーミンが一座に加わった。タッチストーン、フェステ、そして『リア王』の道化を演じた俳優である。たいそう背が低く、犬っころのような風変わりな風貌だったというから、やはりアウトサイダー的である。アーミンは知的ヒューマーにとみ、歌がうまく、何より複雑なせりふを操れた。哲学的な分析を含むせりふをこなし、緻密な対話の応酬によって場面を成立させた。
ケンプの「中世的な祝祭の笑い」から、アーミンの「ルネサンス的な知的笑い」への切換。これこそが『リア王』の道化の鋭い洞察を可能にし、劇に奥行きを与えた。さもなければ、本作は3人の娘への「領土譲渡を巡るお伽噺」に、王権争いを描く「歴史劇」を接ぎ木したものに留まっていただろう。あるいは、耄碌(もうろく)した老人の愚行を諫め、、親孝行の大切さを説く教訓劇に堕していたかもしれない。
『リア王』の道化は、劇の核心を担う複雑な大役である。それだけに、現代における翻案において原作をそのままなぞっても、その真価を十分に引きだすことはできまい。今回の舞台において、くるみざわしん氏がこの道化の役割をいかに解きほぐし、新たな劇世界を再構築するか。そこに現代という時代がどのように映し出されるか。ぜひ見届けたいと思う。
『リアの道化たち』公演詳細・チケット:https://hmp-theater.com/work/hmp_king_lear/
〈執筆者プロフィール〉
太田耕人
京都教育大学学長/演劇評論家
1956年生まれ。シェイクスピアを初めとする初期近代イギリス演劇研究の一方、現代演劇の評論を不定期に『京都新聞』『シアターアーツ』などに寄稿。2015年度まで『テアトロ』誌「今月の関西」担当。著書に『シェイクスピアを学ぶ人のために』(分担執筆、世界思想社)、共訳書にジェイムソン『政治的無意識』(平凡社ライブラリー)、タプリン『ギリシア悲劇を上演する』(リブロポート)など。 朝日舞台芸術賞選考委員、文化庁芸術祭審査委員、日本芸術文化振興会評価委員、京都国際舞台芸術祭実行委員長などを歴任。十三夜会会員、京都国際舞台芸術祭顧問。
