コラム「近松門左衛門が娯楽化した鳥取藩士の女敵討」[文:来見田博基(鳥取県立博物館 主任学芸員)]
宝永3年に鳥取藩で実際に起きた姦通事件を題材に、近松門左衛門は『堀川波鼓』を創作。鳥取県立博物館 主任学芸員の来見田博基さんに、歴史的な視点からコラムを書いていただきました。
近松門左衛門が書き上げた世話物浄瑠璃「堀川波鼓」は、1706(宝永3)年6月に京都堀川で起こった女敵討事件を題材としたものである。大坂の竹本座で初演されたともいうが、その後は、ほとんど上演されることはなかったというから大ヒットはしなかったようだ。しかし、明治半ば以降に再評価がなされると、歌舞伎や新劇、さらには映画(「夜の鼓」)などに取り上げられ、広く認知されるようになった。
さて、近松がモティーフとした女敵討は、鳥取藩の武士が起こした事件をもとにしている。なお女敵討とは、妻を奪った男(女敵)を討ち取ることを指した。なぜ武士が妻を寝取った男を討たなければならなかったのかといえば、当時の武家社会では、それを怠れば面目を失い、家の存続に関わる重大事と認識されていたからである。鳥取藩の処罰規定にも、不義を犯した妻と相手の男は死罪とされており、また両者を殺害してもお構いなしと定められている。
では、史実の中の女敵討は、どのような事件であったのか。鳥取藩の公的記録である「家老日記」には、大倉彦八という藩士による妻殺害事件の記述がある。1706年5月27日に鳥取城下で起こったこの事件の一報は藩のトップである家老のもとに連絡され、彦八は藩の取り調べを受けた。ここで彦八は自分の留守中に、妻と京都から来た小鼓打ち宮井伝右衛門との間に不義があり、それが殺害理由であると述べている。その後の展開は早く、彦八は京都に逃げ帰っていた女敵を討つため、藩の許可を得て、早々に子どもと妻の妹を連れて鳥取を出発し、翌月7日には、京都堀川で宮井を討ち取り、26日には帰国を果たしている。この事件は、同時代の風説書にも記されており、女性も加わった女敵討として、世間の注目を浴びる結果になったようである。
さて、残された記録からは、いかなる証拠によって不義と認定されたのかなど、不明な部分が多い。記録上は「妻」とのみ記されて、名前すら明らかでない彦八の妻は、近松の作品によって独自の性格が与えられ、悲劇のヒロインとして世に知られることとなった。近松は、思いもしない窮地に追い込まれていく主人公おたねの悲劇を通して、武士社会の矛盾、不義という結末を迎えた不条理さや哀れさを描いたが、一方の彦八は、近松が描いた女敵討の世界に共感するところはあったのであろうか。当時、女敵を討ったとしても、世間に恥をさらす行為として、武士社会では忌避されていたというが、その思いは知る由もない。
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