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2024.10.29
コラム

『アラビアの夜』上演に寄せて、演劇の「語り」について 文・土橋淳志(A級MissingLink)

今回、上演する『アラビアの夜』を参考にして、演出の笠井からA級MissingLinkの土橋淳志さんに執筆を依頼し、「語り」に注目して創作されたのが『メイド・イン・ジャパン』でした。
土橋さんにとっての演劇の「語り」とは何かをテーマにコラムを執筆していただきました!
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『アラビアの夜』(2017年) photo:興梠友香

このコラムの依頼があったので、久しぶりに『アラビアの夜』を再読し、演劇における「語り」ついて考えてみることにした。演劇における「語り」、それはつまり、俳優が何者かに語りかけている、ということになるだろう。まずは、その何者かが重要になる。可能性は大きく三つ。①神のような超越的な存在 ②観客 ③共演している俳優、ではないだろうか。順番にみていこう。①神のような超越的な存在について。演劇は大昔、神に捧げる宗教行為として始まった、おそらくは舞踏に近い形式で、というのは想像に難くない。その際に、声のようなものが伴ったとしたら、それは神に対する「語り」といえないだろうか。演劇は、およそこのようにして始まった。そして、その宗教行為は神だけでなく、共同体の構成員を観客のような存在として想定しはじめる。これが②の段階である。やがて、その観客の存在により、神に捧げる「語り」の内容に、ある偏りが生まれてくる。「人間の運命」を対象にしはじめるのだ。叙事詩を歌う吟遊詩人などはこうして誕生したと考えられる。
そして③について。演劇における「語り」にも関わらず、その語りかけの対象が「共演している俳優」というのは奇異に聞こえるかもしれない。確かに一般的に③はダイアローグ(対話)と呼ばれ、モノローグ(独白)と区別されることが多い。しかし、そもそも、複数の俳優が台詞をかけあうという対話形式の演劇は①や②のタイプの「語り」の中から生まれたと考えられている。例えば、古代ギリシャにおいてコロスの中から、俳優が一人、二人と、独立し、アイスキュロスやソポクレスの悲劇が生まれたように。とするなら、一般的にダイアローグと呼ばれている複数の俳優が台詞をかけあうスタイルも、共演している俳優を対象とした演劇における「語り」一形式と考えられないだろうか。
何故、私がこのような結論に至ったのかというと、冒頭にも書いたように『アラビアの夜』を読んだからである。『アラビアの夜』の登場人物には、他の登場人物たちに語りかける台詞と、他の登場人物たち以外の何者かに語りかける台詞、の二種類が用意されている。そして、どうやら、その後者の対象は、神でも、観客でもなく、登場人物であり俳優である語り手自身を対象としてるようなのだ。その証拠に、彼らは自分自身以外の誰かがその声を聞いてるとは露ほども想定していない。つまり、『アラビアの夜』は徹底して共演している俳優(語り手自身も含む)に語りかける対話的なテキストといえるのかもしれない。

『アラビアの夜』(2017年) photo:興梠友香


重要なのは、『アラビアの夜』の舞台になっているような、現代の「都市」において、誰かが何かに語りかけたからといって、返事が返って来るとは限らないし、語りかけは往々にして高層住宅のエレベーターや階段を上り下りする住人のように、すれ違ってしまう点にある。「都市」においてと書いたのは、①や②のタイプの演劇における「語り」の中から、③、いわゆる対話形式の演劇が生まれたのには、古代ギリシャにおける都市国家(ポリス)の成立が密接に関わっているといわれているからで、例えば、海洋国家だったアテナイにとって交易は大きな財源であり、都市の中央には人々が集まり言葉を交わす公共の広場があった。都市の原理は「交換」の原理であり、交換されるものは「物」であり「人」であり、なにより「言葉」だったからだ。ただし、アテナイの人々が広場で交わしたとされている議論や対話などといったものは、現代の都市において、もはや夢物語であり、そもそも、そんなものは最初からオクシデントの見た夢だったのかもしれない。
そう言った意味でエイチエムピー・シアターカンパニーが『アラビアの夜』を〈都市をかたどる劇文学〉と題して上演するのは非常に理にかなっているといえる。『アラビアの夜』は、徹底的に都市の生んだ「語り」のテキストなのだから。ただし、その都市は地中海ではなく蜃気楼の向こうの砂漠にある。船ではなくラクダが荷を運ぶはずである。

公演詳細・チケット:https://hmp-theater.com/work/gekibungaku/

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